解説幼少期

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横浜市磯子区滝頭町。下町の人情が通い合う地域。
アーケードもない小さな商店が、肩を寄せ合うように、寄り添って並んでいた界隈に、ひばりの父、増吉と母、喜美枝が営む「魚増」という魚屋がありました。昭和12年5月29日、ひばり(本名 加藤和枝)は、4人姉弟の長女として生まれました。

父の影響で、幼いころから音楽に目覚めていたひばりは、お店が休みになると、レコードをねだって、何度も何度も、繰り返し聴いていたようです。記憶力も抜群で、3歳の時には、百人一首をほとんど暗記してしまい、両親を始め、周囲の大人たちを驚かせたと言われています。

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:幼少期 ひばりが4歳の頃、太平洋戦争が始まりますが、近所に戦死者が出ると、皆喪に服す中、どうしてもレコードが聴きたくて押入れの中で、汗びっしょりになりながら聴いていました。レコードを聴くのも、歌うのも、とにかく大好きな少女だったようです。

6歳の頃、とうとう父、増吉も入隊することになります。
増吉が出生するときの壮行会で、「九段の母」を熱唱して近所の人たちの涙を誘いました。ひばりが、人生で最初に、大勢の人たちの前で歌を披露した出来事です。「九段の母」という曲は、母親が、戦死して靖国神社に祀られた自分の息子に会いに行った心情を歌った曲です。これをきっかけに、和枝は、出兵兵士の、壮行会の席に呼ばれたり、慰問に行ったりするようになりました。 「歌のうまい子がいる」という噂はまたたくまに巷に広がってようです。

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:幼少期 戦争より帰還した父は、早くから娘の才能を見抜いていた母、喜美枝の強い希望もあって、趣味が高じで楽団を結成します。この楽団の名前が、「美空楽団」。最初ひばりは、「美空和枝」として歌っていたようです。昭和21年、ひばりが9歳のときに、楽団は、旗揚げ公演をすることになります。家の近所に、御風呂屋を改造して作られた「アネテ劇場」という小さな劇場があり、ここで旗揚げ公演を主催、ひばりは、知っている歌を1時間ほど歌い続けたということです。ひばりのリズム感も抜群で、集まった町内の人たちが、皆で体をゆらせて聴いていたようです。

ひばりの活躍は、興行師の目に止まり、漫談俗曲一座の前歌として四国巡業に出かけることが決まりました。この四国巡業をめぐって、ひばりの両親の、激しい争いが起こります。そもそも、父、増吉にとって楽団は、趣味の範囲であって、ひばりを芸能人にする気は、全くなかったのです。しかし、母、喜美枝は、娘の将来の成功を確信し、幾度となく怒鳴られても頑として引かなかったのです。もし、喜美枝が夫の意見に押されて、しおらしく引いていたら、昭和の大スターは、誕生しなかったわけですから、母の先見の明は、正しかったと言えるでしょう。

父、増吉の反対を押し切って出かけた四国巡業で、ひばり母子は、とんでもない事故に巻き込まれてしまいます。

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:幼少期 昭和22年、10歳のひばりは、父以外の楽団メンバーと共に、漫談俗曲一座の、四国巡業に出発します。一行を乗せたバスが、崖沿いのゆるやかな下り坂を走っている時、反対方向から、猛スピードで突っ込んできました。バスの運転手は、避けようと試みましたが避けきれず、衝突。崖にまっさかさまに落ちるところを、運よく木に引っ掛かり免れることができたのです。この事故で、ひばりはひどい重傷を負い、一時は命さえ危ぶまれる状態だったのを、奇跡的に助かりました。

ひばり母子は、四国での事故から、生還したことを、神様に感謝すると共に、せっかく生かされた命、きっと日本一の歌手になるように、生かしてもらった命に違いないと、歌手の道に進むことを、今まで以上に強く願う事になります。美空ひばり母子の、運命を決定づけた出来事といえるでしょう。



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