ポイント解説生い立ち

point-1永遠のスター

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:永遠のスター 美空ひばりの、スターたるゆえんはどこにあるのでしょう。
浮き沈みの激しい芸能界に、40年以上トップとして君臨できたのはなぜでしょう。ひばりが亡くなって、もう20年以上経ちますが、彼女を超える逸材は、未だに発掘されていません。今もなお、ひばりの歌声は、多くの人を魅了しています。それは、何より表現者としての実力が、他の追随を許さない程、ずば抜けていたことです。ひばりの実力を3本柱にしてみました。

まず記憶力。
3歳の頃、既にひばりは、百人一首の句を、ほとんど全部暗記できた、というエピソードがあります。幼いころから、記憶力は抜群でした。生涯音符を読めなくても、すぐに歌えたのにはまず、 この並みはずれた記憶力があったからこそでしょう。

さらに理解力。
詞の背後にある感情まで、きちんと歌いこなすことができる歌手はなかなかいないと言われています。それゆえに、多くの人の心の琴線に触れることができ、共感を呼べたのです。
類いまれな記憶力と理解力は、芝居でも日本舞踊でも発揮され、どんなジャンルでも、ひばりほど抜群にこなす人はいないと絶賛されたほどです。

しかし、何といっても、抜群の歌唱力が彼女の最大の魅力でしょう。
9歳でデビューした時に既に、大人の声質だったひばりは、変声期で多少声変わりはしても、衰えることは決してなかった、と言われています。ブギヴギでデビューし、ジャズやポップスまでこなす幅の広さ。美空ひばりは、決して演歌だけの女王ではなかったのです。

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:永遠のスター もともと声が良い。
ひばりには、七色の声があると聴く人に思わせるように、色んな声を持っています。明るく幼い声、甘い声、勇ましい声、悲しい声、たくさんの声質は、曲ごとに見事に使い分けられていて、それぞれがきちっとハマるのです。

そしてどんなバッシングや、どんな不幸な出来事も一蹴できる程の歌唱力。
高音でも、声を張り上げずに歌う余裕があるのです。一般的に、ひばりの歌を歌おうとすると難しく、カラオケ用というより鑑賞用というイメージです。それもそのはずです。ひばりの歌を書いている、作詞家作曲家達は、あくまでも、女王ひばりの歌を書いているのです。女王に挑戦状を出すつもりで、挑んでいるのです。
常に勝つのはひばりでしたが、それほどまでに難易度の高いメロディラインや、テンポでひばりの魅力を、もっと引き出そうとしていました。一般人が歌いづらいのは、仕方のないことでしょう。

表現者としては、申し分ないひばりの実力。
しかし、ひばりを唯一無二のスターに押し上げた要因には、プライベートを犠牲にしてまでも、芸に生きた、その壮絶な生きざまも関係しているのかもしれません。

「美空ひばりには、神様がついているけど、加藤和枝には、神様はついていない」と、ひばり自身が言っていました。彼女の、生涯芸一筋の生き方に、人々はうらやましいような切ないような何とも言えない哀愁を感じていたことでしょう。皮肉にもその生き方が、ひばりのもう一つの魅力になるのかもしれません。




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point-2闘病~不死鳥の旅立ち

最初の検査入院は、昭和62年4月、公演先の福岡の済生会病院でした。

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:闘病~不死鳥の旅立ち 昭和60年春のゴルフコンペで、プレーの最中腰をひねったと感じたのが、最初の自覚症状でした。それ以来、足の痛みにおそわれるようになりました。しかし、仕事に穴を空けるわけにはいかないと、一年以上放置していたのです。
歌謡界の女王としてのプライドが、検査を遅らせていたのでしょう。その間にも、痛みはどんどん増し、立っていられないほどになってしまいました。歌に集中できないくらいになり、ひばりもさすがに検査をしようと、思ったようです。

病名は、「両側大腿骨壊死」。
分かりやすく言えば、股関節の付け根にあたる部分の、骨の組織が壊れ、変形していく病気です。ひばりの場合、原因がはっきりしませんでしたが、9歳の頃に交通事故に遭い、九死に一生を得た体験に、遠い原因があるのでは、と考えられています。
長年のお酒の飲み過ぎで、肝硬変にもなっていました。ファンの前に立ちたい一心で、検査だけと思ってきたひばりでしたが、観念して4ヶ月間入院することになりました。

8月、ひばりは奇跡的としかいいようのない回復を見せ、済生会病院を退院しました。
病院前に詰め掛けた、大勢のファンの出迎えに、ひばりはニッコリ微笑んで、退院記者会見で、 「もう一度歌いたいという信念がわたしの中にいつも消えないでおりました。ひばりは生きております。」と全快をアピール。
すぐさま新曲、「みだれ髪」のレコーディングに入ります。

精力的に仕事に打ち込むひばりは、自らの復活公演を、東京ドームのこけら落としで行うことを決めました。
デビューして以来、今回のようにファンの前で何カ月も歌わなかったことはありませんでした。それゆえに、ひばりにとって、今の状態がはがゆくて仕方なかったのでしょう。また、いつ歌えなくなるかもしれないという不安から、生き急いだのかもしれません。

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:闘病~不死鳥の旅立ち 昭和63年の東京ドーム公演は、ひばりの集大成でした。
舞台や衣装のデザインは、不死鳥のイメージにすることもひばりの意向でした。曲目、音響、スクリーン、ひばりは全ての準備に関わり、事細かにチェックしました。公演の狙いは、ひばりは不死鳥であり、この道をこれからも歩んでいきます、とファンに印象付けること、そして、ひばりは見事にやってのけました。
入院以来、358日ぶりの奇跡の復活に、ドームを揺さぶるほどの拍手と歓声が沸き起こりました。

東京ドームでの復活は、何度でも甦る不死鳥、ひばり健在を印象づけましたが、病魔は確実にひばりの体を蝕んでいました。
東京ドームの公演も、楽屋にはベットを置き、いつでも横になれる状態を整え、何かあったときの為に、医者もスタンバイしていたようです。

平成元年、2月に福岡で全国ツアーを開始するも、すぐ入院。
新たな病名は、「間質性肺炎」。しかしひばりは最後まで、自分の病名は大腿骨骨董壊死と、肝硬変であると信じていたようです。一度退院しますが、3月に順天堂病院に入院。入院中は、誰にも会いたくないといって面会を避けていました。
一時期、元気な姿の写真も公開されましたが、病状は回復するに至らず、ついに6月24日、間質性肺炎による呼吸不全でこの世を去りました。

まるで、昭和という時代が終わるのを見届けたのかのように、歌謡界の女王は、静かに息を引き取りました。




point-3離婚~母の死、ファミリーの崩壊

離婚後の美空ひばりは、深く傷ついた心をいやすかのように、仕事に打ち込みました。
「芸を捨て、母を捨てることはできなかった」と言ったことを証明するかのように。

皮肉にも昭和39年、離婚直後に発表された「柔」が大ヒット。
次いで昭和41年に出された、「悲しい酒」がまたまた大ヒット。
仕事の充実が、疲れ果てたひばりの心を慰めていったようです。昭和42年には、「真っ赤な太陽」というひばりにしては珍しいポップス調の歌で、ヒットを飛ばしました。

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:離婚~母の死、ファミリーの崩壊 しかし、その後はこれといったヒット曲に恵まれず、弟、哲也の事件で窮地に立たされます。これまで哲也は、何度か逮捕されていたこともあり、ちょうど警察も、総力を挙げて暴力団追放キャンペーンを展開していたことも、タイミングが悪かったといえるでしょう。ひばりの弟、哲也はまさに格好の餌食となりました。

そして、暴力団組員である、弟の哲也が出演をするなら、ひばりの公演は断る、という地方の劇場、公民館からのボイコットが相次ぎます。その批判中傷は、とても厳しいものでした。NHKにも、ひばりを紅白歌合戦に出演させていいのかという苦情や、抗議の電話が殺到し、NHKは、国民の感情として、ひばりに「否」と烙印を押していると判断しました。17年連続して、紅白に出場していたひばりは、昭和48年、落選という結果に終わってしまうのです。

ひばりに、母、喜美枝が癌に侵されていると知らされたのは、昭和52年の秋です。
この告知が、ひばりの人生において、最大の衝撃であったことは、間違いないでしょう。ひばり自身、自分は母によって、造られたものだと自覚していました。その母の命が残り少ないなんて、自分は耐えられるのだろうか...。これまで、苦しい時は、必ず自分の苦しみを打ち明けてきました。 が、今度ばかりは、母親に訴えることができません。

しかしひばりは、母が癌と分かってからというもの、それまで、全て母親に任せていたことを、自分で何とかしなければいけない、と思うようになり、今まで自分は芸一筋、経済的な面は、母親任せっきりだった状態を変えようと、懸命に努めます。引っ込み思案だったひばりが、積極的に人とかかわるようになり、親しい人を見つければ、なんでも訊いて学びました。もしかしたら、これがひばりの巣立ちなのかもしれません。

長い闘病生活の末、母、喜美枝が昭和56年7月29日、亡くなりました。
涙も枯れ果てたひばりが、「こんなにおだやかなママの顔を見るのは、生まれて初めてだったかもしれない」ともらしています。喜美枝もまた、芸能界という華やかながら厳しい世界で、娘を守り、家族を守り、必死に生きてきた女性でした。

喜美枝が体調を崩して、ひばりについていられなくなった頃から、哲也が、母に代わってマネージャーをやることになりました。哲也は、刑を終え改心し、人が変わったようにマネージャー兼プロデューサー業に没頭していきます。しかし、もともと気持ちの優しく、気遣いのある哲也は、姉と、仕事関係者たちとの板挟みになることが多く、相当悩んでいたようです。母親なら強く言えるところ、弟では偉大すぎる姉を懐柔できず意見が対立した時、どうしても哲也は引いてしまいます。 不眠不休で頑張る哲也にとって、ひばりのプロデュースは相当重荷だったようです。

しかしひばりにとって、自分の音楽プロデューサーが他の誰でもない弟というのは、母親を失った今だからこそ大変大きな存在でした。ひばりも哲也の才能を高く評価していましたし、それゆえに、ひばりは、哲也がひばりの為に作曲した曲を、好んで歌っていました。しかし、新たな試みをしようとしていた矢先の昭和58年10月24日、長男哲也は急性心不全で帰らぬ人となってしまうのです。

享年42歳の若さでした。

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:離婚~母の死、ファミリーの崩壊 ひばりは、哲也の突然の死を、悔やんでも悔やみきれませんでした。「なんでうちは皆こんな早く死んでしまうの!きっとおふくろが寂しくて哲也を呼んだのよ、今度は私のことを呼ぶわよ」と泣き叫びました。

昭和61年4月1日、今度は末弟武彦が、同じく42歳でこの世を去りました。
ひばりは、武彦を立派な俳優にしたくて色々手を尽くしました。しかし武彦は、俳優として芽が出なかった後、お酒に溺れることが多くなります。居酒屋を開きますが、武彦自身がお酒を飲み過ぎ、一年もしないうちに閉店。しかし、ひばりに泣きつき、再起をかけてスナックを開きました。最初こそ真面目にやっていましたが、お酒が原因で、体調を崩すことが多くなりました。ひばりは、何とか武彦を奮起させたいと再三手紙で励ましたり、たしなめたりしましたが、結局何も変わらなかったようです。

こうして、ひばりファミリーの時代は終わりを告げ、病魔は、ひばりをも襲い始めて来たのです。




point-4塩酸事件~結婚

美空ひばりは昭和31年の夏、沖縄で一週間にわたる公演を行い、沖縄に、空前絶後の美空ひばりブームと、戦後という時代の到来を知らせる形となりました。公演は、連日超満員で、沖縄の本島諸島合わせた人口の1割が、ひばり公演を、堪能したと言われています。沖縄の人たちは、何を歌っても哀切ただよういたいけな少女に自分達の立場を、重ね合わせたのかもしれません。 そして、まだ戦争から抜け出せない日常を送っている沖縄の人々は、華やかで、本格的な新しいスターの誕生に、日本の未来を、映しだしたようにも考えられます。それゆえに、ひばりの沖縄公演は、大盛況のうちに幕を閉じることになりました。

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:塩酸事件~結婚 しかし、日本各地で、ひばりフィーバーが起こっている時に、ひばり、に強い憧れを持っているからこそ、ひばりを傷つけてやりたいという、黒い感情を抱いてしまうファンもいました。
昭和32年、浅草国際劇場に出演中のひばりが、ファンの少女から塩酸をかけられ大けがする事件が起こりました。後の処置が幸いして、痕には残らずに済んだようですが、ひばり母子の、精神的ショックは相当なものだったようです。ファンを大事にし、ファンの為に歌っていると自負していただけにそのファンに裏切られた衝撃は計り知れません。

塩酸事件、そして三人娘の江利チエミ、雪村いづみが結婚し、ひばりが、ひとり悲しい思いをしていた矢先、運命の人に出会うことになるのです。

昭和36年、雑誌「明星」の対談で、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった小林旭と出会い、すぐに意気投合します。だいたいひばりが好感をもつと、一卵性母子と呼ばれる母、喜美枝も同じような感情を抱くのですが、小林旭に限っては少し事情が違っていたようです。好感どころか、ひばりが一気に旭にのめり込んだことを不安視し、周囲に旭について探りを入れたりしました。「お嬢(ひばり)が旭にとられてしまう」、そう思ったのでしょう。しかし、燃え上がった恋の炎は、誰にも止められず、喜美枝の不安をよそに、昭和37年婚約。
婚約後、ひばりと旭は、他に人がいてもお構いなしにイチャつき、周囲を驚かせたようです。二人の気持ちは、最高潮に盛り上がったまま、同年11月に結婚式を挙げます。

当時、肺を患って病院に入院していた増吉は、ひばりの結婚式に、出席することだけを、楽しみにしていましたが、その願いは叶うことなく、結婚した翌年、長年の愛人に見守られ、この世を去ることになりました。

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:塩酸事件~結婚 しぶしぶ二人の結婚に了承した、母、喜美枝でしたが、結婚によって、スターのひばりの品格を落とさないように、旭の仕事にも口を出しました。映画出演のギャラを、ひばりと同額にさせたり、 撮影所にスターよろしく付き人を付けさせ、絨毯の上を歩かせたり。どれもこれも、ひばりにふさわしい相手はこうあるべきだという信念から来るものでしたが、基本的に、喜美枝と旭はソリが合わなかったようです。

旭が、ひばりに黙って高級車を購入し、その支払いを、結婚式のお祝い金で、賄おうとしていたことが発覚し、ひばりと旭の仲は、新婚旅行から暗雲が立ち込めます。

新婚生活は、ひばりを、できるだけ家庭にいさせたい旭と、加藤家の大黒柱としての、ひばりの収入を減らしたくない喜美枝との水面下の争いでした。旭は、天下の美空ひばりが、自分のために尽くしていることに、例えようのない快感を覚え、ひばりに仕事の量を減らさせました。ひばりの仕事の内容にも、いちいち注文をつけ、演出で決まっていたラブシーンもクレームをつけたりするようになりました。

一方で、仕事を減らされては困るのは、喜美枝です。
結婚による仕事の制限、そしてそのことによる減収。ひばりは、加藤家を支えることのできる、唯一の稼ぎ頭なのです。ひばりと旭が住む「旭御殿」も、名義は二人ですが、実際は、加藤家が負担していました。さらに、生前増吉が始めて、哲也が後を継いだ土建業の経営も悪化、もう一人の弟、武彦の派手な遊び方による出費もかさんでいます。

そして旭の金遣いも、喜美枝の許せないことの一つでした。
ひばりの仕事を、セーブさせておきながら、自分でお金が必要となると、ひばりや喜美枝に無断で、ひばりの地方への興行権を売ったり、ひばりの妹の夫に借金を頼みに行ったりしていたのです。

ひばりの心にいつしか、旭への不信感が募り始めます。

表面では、仲睦まじく見せていた、ひばりと旭でしたが、本当は見せかけだけの生活だったのでしょうか。喜美枝も離婚へと導く行動をとり始めます。悉くひばりの前で、旭をののしり、旭と一緒にいれば、不幸になると吹き込んだようです。さらに、このままだと加藤家の暮らしが崩壊するかもしれないと、人一倍家族思いで責任感の強いひばりの不安をあおったのかもしれません。

娘の幸せより、家族の幸せ。
喜美枝は、自ら必死に作り上げた天下の「美空ひばり」を、ただの主婦にだけは、絶対にしたくなかったのでしょう。

喜美枝は、公然と一番最悪なことは、「旭と結婚したこと」、一番最高なことは、「旭と離婚したこと」、と公然と言い放ちました。この結婚は、最初から最後まで波乱万丈のまま、2年も持たずに終わりを告げることになります。

ひばりと旭の離婚は、旭の全く理解できないところで進んでいきます。
もしかしたら、何が本当の離婚の原因なのか、旭だけでなく誰一人知らないままなのかもしれません。二人が話し合って離婚を決めたわけではなく、旭が田岡組長からひばりの考えを聞き、理解した上での離婚=「理解離婚」と呼ばれたそうです。体裁上「理解離婚」と言ってのけましたが、旭は、田岡組長から泥仕合を避けるために、「今後、ひばりについて絶対にしゃべるな」と、 釘をさされていました。

ひばりもまた、離婚記者会見で、「芸を捨て、母を捨てることができなかった」と繰り返し、この先は仕事に生きることをアピールしました。

周到に準備されていた、離婚計画。
しかしもし、二人の結婚が周りにつぶされていなければ、その後のひばりの数々の名曲は、生まれなかったかもしれないということは皮肉なことです。




point-5デビュー~三人娘

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:デビュー~三人娘 四国巡業から戻った美空ひばりは、翌年の昭和22年、横浜国際劇場の、開館1周年記念に、出演のチャンスをもらいます。本格的な劇場デビューとなったのです。大人の流行歌を、大人顔負けで歌う10歳に、観客達は大きな拍手と喝采を送りました。当時流行っていた、「ブギヴギ」を歌う先輩歌手からも一目置かれる存在となり、脅威を感じた先輩歌手から「自分の持ち歌であるブギヴギは歌ってはいけない」と禁止令が出されて程です。しかし、いずれにせよ、ひばりの歌が多くの人たちの心に響いたということは間違いありません。

横浜国際劇場での初公演を機に、ひばりは国際劇場専属の歌手となり有力なマネージャーを得て、東京でミュージカル風の舞台に出演します。この舞台で芸名を、「美空和枝」から「美空ひばり」に変えました。その後日劇に出演したり、強運も手伝って、コロムビア大会でコロムビア専属の大物歌手を食ってしまうほどの歌唱力を見せつけ、その名は一気に知れ渡ります。

コロムビア大会で、ひばりの将来性に、別の視点から眼をつけたのが、映画プロデューサーであり、初の映画「のど自慢狂時代」に出演することになりました。いくつかの映画出演の後、ひばりが12歳の時に初主演した、「悲しき口笛」が大ヒット。同名の主題歌は、売り上げが50万枚にものぼり、戦後最大のヒットとなります。

しかし、彗星のごとく現れたひばりの活躍を、面白くないと思う人もいたようで、デビュー間もないころから、ひばり母子は心ないバッシングにさらされてきました。

「大人の真似をして、子供に稼がせている」
「ひばりの歌は子供っぽい健全さがまるでない、ゲテモノだ」

など、批評というより、ただの嫌悪感でのバッシングにひばり母子は、相当苦しめられたようです。

大人の物真似でデビューし、ゲテモノ呼ばわりされていたひばりでしたが、「悲しき口笛」のヒットで、悪いイメージはかなり改められました。さらに、イメージアップを求めて作られたのが、「東京キッド」という曲です。
「東京キッド」の大ヒットは、ハワイ公演帰りで箔がついたひばりを、急速にスターへと押し上げるきっかけを作りました。昭和26年、雑誌、「平凡」の人気投票で、ひばりは、花形歌手ベストテンの、第三位にランクづけされます。ひばり人気は、確実に高まりを見せて、立派なスターとして 世間に認知されたと言えるでしょう。

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:デビュー~三人娘 スターとしての地位は、ひばりがずば抜けていましたが、江利チエミ、雪村いづみという同世代の2人と、「元祖三人娘」として人気を競い合ったのも、10代の終わりの頃です。対談や、映画共演などから、公私ともに仲良くなり、ひばりは、これまでずっと仕事続きの生活で、同世代の友達が、なかなか作れなかったので、いっぺんに2人も、同じ年頃の友人が出来て、素直に嬉しかったのではないでしょうか。

仲良し反面、お互いライバル意識はとても強かったようで、特に、ひばりが、江利チエミの得意とするジャズの歌を歌ったり、逆にチエミが、演歌っぽい歌謡曲を歌ったりしました。いづみは、そんな二人の間で、潤滑油的な存在だったようです。チエミ、いづみの2人のお陰で、それまで内向的で大人しく口数の少なかったひばりが、どんどん陽気で明るくなり周囲を驚かせるくらいだったそうです。

3人の親しい間柄は、時が経つにつれて間遠になりつつも、江利チエミが亡くなるまで続いたということです。




point-6幼少期

横浜市磯子区滝頭町。下町の人情が通い合う地域。
アーケードもない小さな商店が、肩を寄せ合うように、寄り添って並んでいた界隈に、ひばりの父、増吉と母、喜美枝が営む「魚増」という魚屋がありました。昭和12年5月29日、ひばり(本名 加藤和枝)は、4人姉弟の長女として生まれました。

父の影響で、幼いころから音楽に目覚めていたひばりは、お店が休みになると、レコードをねだって、何度も何度も、繰り返し聴いていたようです。記憶力も抜群で、3歳の時には、百人一首をほとんど暗記してしまい、両親を始め、周囲の大人たちを驚かせたと言われています。

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:幼少期 ひばりが4歳の頃、太平洋戦争が始まりますが、近所に戦死者が出ると、皆喪に服す中、どうしてもレコードが聴きたくて押入れの中で、汗びっしょりになりながら聴いていました。レコードを聴くのも、歌うのも、とにかく大好きな少女だったようです。

6歳の頃、とうとう父、増吉も入隊することになります。
増吉が出生するときの壮行会で、「九段の母」を熱唱して近所の人たちの涙を誘いました。ひばりが、人生で最初に、大勢の人たちの前で歌を披露した出来事です。「九段の母」という曲は、母親が、戦死して靖国神社に祀られた自分の息子に会いに行った心情を歌った曲です。これをきっかけに、和枝は、出兵兵士の、壮行会の席に呼ばれたり、慰問に行ったりするようになりました。 「歌のうまい子がいる」という噂はまたたくまに巷に広がってようです。

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:幼少期 戦争より帰還した父は、早くから娘の才能を見抜いていた母、喜美枝の強い希望もあって、趣味が高じで楽団を結成します。この楽団の名前が、「美空楽団」。最初ひばりは、「美空和枝」として歌っていたようです。昭和21年、ひばりが9歳のときに、楽団は、旗揚げ公演をすることになります。家の近所に、御風呂屋を改造して作られた「アネテ劇場」という小さな劇場があり、ここで旗揚げ公演を主催、ひばりは、知っている歌を1時間ほど歌い続けたということです。ひばりのリズム感も抜群で、集まった町内の人たちが、皆で体をゆらせて聴いていたようです。

ひばりの活躍は、興行師の目に止まり、漫談俗曲一座の前歌として四国巡業に出かけることが決まりました。この四国巡業をめぐって、ひばりの両親の、激しい争いが起こります。そもそも、父、増吉にとって楽団は、趣味の範囲であって、ひばりを芸能人にする気は、全くなかったのです。しかし、母、喜美枝は、娘の将来の成功を確信し、幾度となく怒鳴られても頑として引かなかったのです。もし、喜美枝が夫の意見に押されて、しおらしく引いていたら、昭和の大スターは、誕生しなかったわけですから、母の先見の明は、正しかったと言えるでしょう。

父、増吉の反対を押し切って出かけた四国巡業で、ひばり母子は、とんでもない事故に巻き込まれてしまいます。

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:幼少期 昭和22年、10歳のひばりは、父以外の楽団メンバーと共に、漫談俗曲一座の、四国巡業に出発します。一行を乗せたバスが、崖沿いのゆるやかな下り坂を走っている時、反対方向から、猛スピードで突っ込んできました。バスの運転手は、避けようと試みましたが避けきれず、衝突。崖にまっさかさまに落ちるところを、運よく木に引っ掛かり免れることができたのです。この事故で、ひばりはひどい重傷を負い、一時は命さえ危ぶまれる状態だったのを、奇跡的に助かりました。

ひばり母子は、四国での事故から、生還したことを、神様に感謝すると共に、せっかく生かされた命、きっと日本一の歌手になるように、生かしてもらった命に違いないと、歌手の道に進むことを、今まで以上に強く願う事になります。美空ひばり母子の、運命を決定づけた出来事といえるでしょう。




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