ポイント解説加藤和枝と美空ひばり

point-1母の死後

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:母の死後 美空ひばりにとって、一卵性親子とまでいわれた母、喜美枝の存在は、とてつもなく大きいものでした。加藤和枝の母でありながら、美空ひばりをも生んだ母でした。あまりに大きすぎる存在が、この世からいなくなってしまった時、これ以上ないくらいの辛い体験をしたと、ひばり本人も語っています。泣いて泣いて涙も枯れ果て、あれ以上の苦しみ、悲しみはなかったと。

ひばりの周囲の人たちも、喜美枝の死で、ひばりも死んでしまうのではないかと、本気で心配していたほどです。しかし、ひばりは何とか持ちこたえました。崩れそうになる心を、必死で持ちこたえて、耐え抜いたのです。喜美枝の死を乗り越えることが出来たからこそ、次いで弟2人が亡くなった時も、悲しんだはずですが、喜美枝の時以上ではなかったようです。

昭和56年、一生に一度の辛い別れを、経験したひばりは、母の死によって初めて、自分の置かれている立場、スタンス、ビジョンを、本気で考えるようになります。母が防波堤となり、自分は歌を歌っていればよかっただけの時代、周りを全て囲んでもらって守られていた時代は終わったと実感したのでしょう。ひばりは44歳にして、初めて自立したのです。

お金の管理から、自分のプロデュース、スタッフへの心遣いなど、喜美枝の死後、明らかにひばりは変わりました。

一番変わった事は、取材もひばり本人に申し込めばOKになったということです。今までのように、殻に閉じこもっていてはいけないと、きちんとマスコミに門を開かなければいけないことに 気付いたようです。インタビューにも、ある程度応ずるようになって、自分から積極的に、素顔と肉声を届けようとしていていました。その矢先、病に倒れてしまいました。新しい美空ひばりを、見せてくれようとしていただけにマスコミ関係者を始め、周囲の人たちは、これからだったのに...と、悔しい気持ちでいっぱいだったようです。




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point-2和枝とひばりと、酒

美空ひばりのヒット曲の一つに、「悲しい酒」という曲があります。そして、この曲を歌う時、ひばりがよく涙を流すことから、「悲しい酒」がひばりの代表曲だと、思うファンも少なくありません。

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:和枝とひばりと、酒 ひばりのお酒の飲み方は、この曲名のように、悲しい酒でした。晩年、悲しみや寂しさを紛らわすのと、脚の痛みを紛らわすために、へべれけになるほど焼酎を飲んだそうです。ひばりの命を縮めたのは、酒とストレスだったと言われています。温かく、人への心配りも細心だったひばりは、神経使って仕事をして、お酒を飲む時も、周りに気を遣っていました。そうして、どんどんお酒の量が増えていってしまったようです。

  9歳からつねに世間の眼にさらされ、プライベートがなく、何も自由がなかったひばり。常に、スター美空ひばりであり続けることから、たまらなく逃げたくなることがあったのでしょうか。それとも、お酒を飲む時だけは、加藤和枝としての時間だったのでしょうか?

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:和枝とひばりと、酒 ひばりは、座ったっきり、ブランデーの水割りをガブガブ飲み続けて、悲しい話をするそうです。話しながら涙を流し、泣きながら笑い、歌い、しゃくりあげ、そして朝になることが、いつもの流れだったようです。輝かしいスターの栄光の陰に埋もれてしまった、加藤和枝という一人の女性の人生を、思い返していたのでしょう。「美空ひばりには神様がついているけど、加藤和枝にはついていない」と、よく口にしていたのは、和枝の幸せを犠牲にしてまで、選んだ芸一筋の人生に悔いはなくても、何かしら思うところがあったからだと言えるかもしれません。

しかし、朝の3時、4時くらいまで飲んでも、翌日の仕事には一切影響がなかったと言いますから、本当に驚きです。歌手でキーを下げて歌う人もいますが、ひばりは、生涯そんなことはなかったと言われています。すさまじいプロ根性、だからこそ女王なのです。

ひばり自ら、「勝気な女だから、弱いところを見せられない、常に私は元気、私は幸せという風に胸を張っていなければならない性格。それゆえに一人になったとき、どこにも頼るところがない、寂しい、その気持ちをお酒に託す」と、言っています。

歴史に「もし」はありませんが、もしひばりに心から頼れる誰かがいて、支えられていたら、お酒に溺れて行くことはなく、もっと長く女王として歌い続けられたのかもしれません。残念でならないことです。




point-3ママ

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:ママ 美空ひばりが、39歳にして、弟、哲也の子供を養子にしたことは、ひばりに「母親」という新たな役割を与え、母性愛に目覚めるきっかけになりました。名前は、加藤和也、もともとは叔母と甥の関係です。

哲也と、和也の母親の女性の仲は、和也が誕生した時には既に、冷めきっており、和也は生まれて間もない頃から、加藤家で育てられていました。

当時から、既にひばりは、和也から、「ママ」と呼ばれて、手塩にかけて育てていました。ひばりには、和也への愛情があふれていたため、養子縁組もいわば、自然な成り行きだったようです。和也が、小学校に入ってから養子縁組をしましたが、この養子縁組も母、喜美枝からの提案でした。ひばりはこの時39歳、再婚の可能性を捨ててまで選んだ母親としての生き方に周囲の人たちの中には、「ここでもまた、ひばりファミリー安泰の為、自らの幸せを犠牲にしたのか?」と心配する声もあったようです。

しかし、ひばりの母性愛は、既に誰も止められないほど深く強いものでした。目に入れても痛くないほどの溺愛と言えるでしょう。

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:ママ 特に、和也の小学校選びには、かなり真剣で、和也により良い教育を受けさせる学校はどこかと、自ら足を運んで見学に行ったほどです。入学式も、当日の混乱を恐れず校則も守り、電車で出席。スターでなく母親としての謙虚さ、潔さが感じられます。

和也の存在は、ひばりではなく、和枝として感じることができるこの上ない幸せだったのでしょう。 ひばりは、自分なりのやり方で、一生懸命母親をやっていたようです。和也が幼いころは、カセットテープにお話を録音したりしました。子供は宝、と常々周囲にも言っていました。

和也が思春期になってくると、交換日記で叱ったり励ましたり、何か話題を見つけてキャッチボールを楽しもうとしたりしていたようです。思春期の和也にとっては、その愛情が、重荷に感じることもあったかもしれませんが、ひばりは良い母親になろう、立派な母親になろうと、頑張っていたのです。

ひばりが、何よりも期待をして楽しみにしていたのが、和也の成長でした。和也を、ひばりのプロデューサーに育て上げることに、必死でした。そのための舞台も、お膳立てされていたのです。 舞台は横浜、ひばりの故郷、予定されていた和也の初プロデュースは、横浜アリーナでした。しかし、時は平成元年、ひばりは病状が思わしくなく、順天堂大学病院で闘病中でした。「横浜アリーナの舞台には這ってでも出たかった!大仕事をどうしても成功させてあげたかった。」と 子供の巣立ちを見ることができなかったことが、悔やんでも悔やみきれなかったことでしょう。

現在、息子和也は、ひばりプロダクションの社長として、ひばりが残した芸の軌跡を、後世に伝えるべく、全国で日々活動を繰り広げています。




point-4ひばりの「好きなもの・嫌いなもの」

美空ひばりが好んでいたもの、嫌いなものを通して、美空ひばりを見てみると、素顔の彼女が どういう人であったのか、より分かりやすく見えてくるかもしれません。ここでは、スターとしてではなく、一人の女性としての素顔をご紹介します。

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:ひばりの「好きなもの・嫌いなもの」

美空ひばりの「好きなもの」

手紙。
実は人一倍内向的で、無口だったようです。ひばり自身も、自ら口下手だからといって、忙しい合間を縫って、よく家族や友人に手紙を書いていました。晩年、武彦が事業に失敗し、堕落的になっているところに叱咤激励をしようと、何通も長い文章の手紙を送ったりしています。自分も病と闘っていた時期ですが、不甲斐無い弟が心配でならなかったのでしょう。色々と細かく気を配って、優しく面倒を見る、世話好きな一面を、垣間見ることができます。

実はユーモアのセンスもあったようで、こんな話があります。
ひばりが、雑誌のインタビューで、文明堂のカステラが好きだと答えたため、文明堂の社長秘書が、社長にぜひお礼に伺えと言われて家を訪ねてきたことがあり、自分の叔母であり付き人だった秘書が応対しました。その出来事を、後から聞いたひばりは、こう言いました。「わたしの秘書と文明堂の秘書と『ヒショヒショ話』ね。」微笑ましくて、かわいいユーモアではありませんか。

ジャズ。
オフの日は、ひばりは当然のように素顔のままで、必ずジャズのスタンダードナンバーの曲を聴いては、口ずさんでいました。ひばりが、演歌よりもジャズを好んでいたのは、何となく不思議ですが、ひばりの叔母の結婚相手がアメリカ人で、昔から家にジャズのレコードがたくさんあった事から、聞き馴染みのジャンルなのでしょう。ひばりは小さいころから、繰り返し繰り返しジャズを聞いて英語の発音や間を学んでいました。新曲が届くと、一度に5、6曲は覚えてしまうほどの記憶力の良さでしたが、普段はジャズを軽くハミングしていることの方が多かったと言われています。

さらに、素顔のひばりは、気さくで庶民的だったようです。
マスコミで作られたイメージで、お高くとまっていると思われていましたが、本当は、裏表なく、ざっくばらんな女性でした。高級料理より、一般の食卓に並ぶような手頃な価格の魚が好きでしたし、地方巡業の際も、公演先が気遣って様々な凝った料理を出しても、宿泊先や楽屋に七輪を持ちこんで、イカを焼いて食べるなど、食生活に関しては、実に庶民的だったようです。

また、こんな事もありました。
夜中、ひばりがタクシーで友達の家へ向かい、目的地に着いた時、財布を忘れたことに気付きました。ひばりは、タクシーの運転手に、「私は美空ひばりと申しますが、ちょっとお金を(友達)に借りてきます」と言いますが、夜中で、しかもすっぴんであった為にタクシーの運転手は信じません。 困ったひばりは、そこで突然、「リンゴ追分」を歌い出すのです。運転手はその歌声で、正真正銘の美空ひばりであると、確信したのでしょう。天下の美空ひばりの生歌を、自分一人で聴けたということに感動し、無料で歌を披露してもらったのだから、タクシー代金は受け取れないと、運転手自ら断りをしてきたそうです。傲慢で、スター気取りのやり取りをするわけではなく、自分の証明として生歌を披露するところなんて、サービス精神旺盛な、粋な計らいですね。

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:ひばりの「好きなもの・嫌いなもの」

美空ひばりの「嫌いなもの」

人の目を見て話せない人。
一見華やかですが、嘘と虚構が渦巻く芸能界という場所を、幼い頃から生き抜いてきたひばりにとって、信頼できる人間と出会えるかどうかが、今後の自分を左右することになると、思っていたのでしょう。一般的に、人の目を見て話ができないのは、性格的なものもあるでしょうが、何か心に後ろめたい気持ちがあるからだと解釈されがちです。ひばりは、根本的にはファミリー以外は信じないという信念を持っていました。その為、人を見る目は相当厳しかったようです。人を判断する厳しいフィルターを持っているひばりにとって、初対面で、人の目を見て話ができない人は、 言うまでもなく、否という烙印を押されたのかもしれません。

褒められてうぬぼれる人。
ひばりが小さい頃、母、喜美枝からの教えで、「『ひばりちゃんは歌が上手ね。』と言われて嬉しいだろうけど、それにうぬぼれることなく、もっともっと歌が上手だと言われるように頑張らなくてはならない」と、言われていたそうです。デビュー当時から歌唱力、パフォーマンス力がずば抜けていたひばりは、幼いころからたくさんの賛辞をもらっているに違いありません。しかし、それにおごらないで、より上を目指し続けたからこそ、他の追随を許さない程の地位を築き上げることが できたのかもしれません。自分に厳しいひばりだからこそ、許せないのでしょう。




point-5家族思いだったひばり

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:家族思いだったひばり 9歳でデビューして、52歳でこの世を去るまで、ひばりにとって家族は、唯一、加藤和枝に戻れる場所だったのではないでしょうか。仕事が忙しくて、一緒にいる時間が、極端に少なかった分、その一秒一秒を大切にし、家族を思う気持ちは誰よりも深くかったようです。

家族思いではありますが、ひばり自身、両親に対して、親孝行したとは思っていないようです。父、増吉に対して「芸能界にはいるのを反対した父に、『入らせてくれなければ死ぬ』と半ば脅迫して歌う事を選んだため、長年、美空ひばりとしてスターの地位を築いてきても好きなことをさせてもらっただけで、親孝行ではない。」と公言しています。

また、一卵性親子と言われた喜美枝に対しても、「母は、『自分に代わって自分の子供に芸の道を進ませたい』という一般的なステージママではなかった」と主張した上で、むしろ、歌が好きで好きで仕方なかった自分のために母は、全て犠牲にして付いてきてくれたんだという気持ちで いたようです。

ひばりは、常に弟達、や妹のことを気にかけていました。小さいころから、母を独占してしまっているという罪悪感が常にあったようで、弟達がかわいそう、どうにかしてあげたいと、心の底から心配していました。

弟達がひばりの名前を傘に遊びまくり、金遣いが荒くなっても、お小遣いあげたり、何か事業を起こす時は、ひばりが出資していたのは、度の過ぎたかわいがりようだったのかもしれませんが、ひばりにとっては、常に自分の心の中にある罪悪感を、少しでも軽くできるなら、と思ったのでしょう。

そして、ひばりは、なによりも身内に褒めてもらうのが、嬉しかったようです。曲や舞台、映画で何か成果を残した時、いつも最初にひばりに祝福をいう、哲也を始め、家族が喜んでくれることが、何よりの自分のご褒美だったのかもしれません。

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:家族思いだったひばり 妹にもよく批評を頼み、感じたままを素直に率直に言ってくれることに感謝していたようです。妹の手が荒れていれば、不憫に思いハンドクリームを1箱送ったり、たまにする会話の内容を、しっかり覚えていて、忘れずに実行したりする、思いやりのある姉でした。妹が、ひばりの公演に行く時は、必ず付き人に、何が食べたいかを聞くよう指示し、休憩時間に楽屋で一緒に食事をするのを、とても楽しみにしていました。

家族を第一に考え、だれよりも家族が喜ぶ顔を観るのが大好きだったひばり。加藤家は、加藤和枝に戻れる大切な場所だからこそ、とても大切に思っていたのでしょう。




point-6ひばりと暴力団との関係

美空ひばりは、暴力団と密接なかかわりがあるー

この事が、後にひばりを窮地に立たせることになりますが、一体どういう始まりで、どういう間柄だったのでしょうか。

ひばりが、「神戸のおじさん」と慕う山口組三代目の田岡一雄と、初めて出会ったのは昭和23年暮れです。ひばりが、神戸の、「神戸松竹劇場」に出演する前日に、挨拶に出向いたのが最初だと言われています。

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:ひばりと暴力団との関係 当時、地方巡業の際は、必ずその土地を仕切っている暴力団に挨拶に行くのが習わしでした。実際、暴力団が、地方巡業を含む興行を手掛けていることが珍しくなかった時代で、公演を無事に進めるためにも、挨拶に行かないで舞台を開くというのは、考えられませんでした。

田岡一雄が山口組三代目を襲名した戦後すぐから、山口組は関西圏の興行にはものすごい勢力をもっていたようです。つまり、関西で興行を行うには、山口組のバックアップは不可欠ということです。しかも、戦後すぐは、国内が混乱状態で警察機構もまだ確立していなかったので、今と違って、暴力団には比較的自由が与えられていたという時代背景もあります。

田岡はひばりの才能に惚れ込み、心から大切にし、ひばりの地方巡業と言えば必ず付き添うほどの入れ込みぶりだったようです。が、ただ単に可愛いからとか時間があったからというだけではなかったようです。

田岡自身が同行することの、最大の目的は、ひばりをリトマス試験紙として、田岡同行で地元の暴力団が、どう対応するか、口組にとって敵か味方かを探るということだったのです。そのため、山口組の勢力拡大にとって、ひばりの地方巡業は、欠かせない存在だったと言えるでしょう。

しかし、ひばり自身も認めているように、地方巡業は、田岡のような立場の人たちの庇護がなければ、こなせなかったのです。何もバックアップがなければ、地元の暴力団に嫌がらせされたり、ひどいときは公演中止に追い込まれることもあったといわれています。

背景に大人の事情があるにせよ、幼いときのひばりは、田岡に相当可愛がられていたようです。 ひばりの家は、泥棒に入られることも多かったので、神戸の組から、常に数人常駐させていました。田岡の息子とも親交が深く、ひばりを姉のように慕っていたようで、特に息子は大学が東京だったためにひばり一家との付き合いは、さらに深くなりました。

環境が環境であったため、自然な成り行きで弟、哲也が暴力団の世界に魅入られてしまいます。

哲也が、父、増吉の葬儀の際の花輪に、横浜に本拠地を置く「山口組系益田組の舎弟頭」という肩書を書いたことから、古くから、ひばりと暴力団は関わりがある上に弟は暴力団員だと噂になってしまいます。

そこに昭和47年、警察庁による暴力団追放キャンペーンの見せしめに近い形で、ひばりの弟である哲也が暴力行為で逮捕されます。すぐに釈放になりますが、ひばりは公演を、哲也共演と宣伝していたことから、全国の公演先から相次いでキャンセルされ、仕事に、多大な影響が出ることになりました。哲也は、その後も懲りずに数回逮捕され、それでも家族だからと哲也を擁護するひばりの姿勢を、世間から厳しく糾弾され、ついにNHKの紅白歌合戦も落選という結果になるのです。

暴力団と密接だったために、助けられたり、逆にピンチにさらされたり。しかし、ひばりの芸能人生においては、不可欠な存在であったことは否めません。




point-7お気に入りの言葉

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:お気に入りの言葉 美空ひばりは、長い芸能生活を生き抜く上で、モットーにしている言葉がいくつかありました。彼女の信念にも通じる言葉を、3つほどご紹介します。

「一度吐いた唾は飲まない」
こうと決めたら絶対にやり通す、という意味ですが、ひばりの性格をよく表している言葉です。意志の強さを感じさせますが、自分の意見を変えない、という性格から周りと、時には、一卵性母子と言われた母、喜美枝とも衝突し、困らせたこともあったと言われています。信念を曲げない強い意志、それこそが浮き沈みの激しい芸能界で長い間不動の地位を築けた、原動力にもなっているのでしょう。

「スターである限り、幸せでなんかあるわけがない」
スターでないと口にできない言葉であり、だからこそ本当のスターだと、感じさせる言葉です。おそらく、ひばり自身の決して恵まれなかった私生活を思って発したことでしょう。実際、加藤和枝という一人の女としての幸せは、なかなかつかむことができなかった、しかし、逆に私生活の影の部分があったからこそ、美空ひばりとしては、生涯輝いていられた、という結末が何とも皮肉なことです。

「今日の我に明日は勝つ」
晩年、ひばりのお気に入りの言葉で、よく色紙などにも書いていました。ひばりは、40年以上芸能界に身を置き、たくさんのライバルと出会いました。ライバルから影響を受け、切磋琢磨して、芸を磨き、ひばりは、類い稀なる才能と努力、常に芸一筋で生きてきた結果、結局、真のライバルは自分だという考えに行き着いたのかもしれません。もっと芸を磨く、もっと違うことに挑戦する、 ひばりが、追い求めているのは、まだ見ぬ美空ひばりだったのでしょうか。それとも「今日の我」というのは、晩年、自分を幾度も苦しめた数々病気のことなのでしょうか。どちらの意味でも、 この言葉を胸に、常に自分を奮い立たせていたことだけは間違いないでしょう。




point-8超完全主義者

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:超完全主義者 仕事に厳しく、努力家。
美空ひばりの超完全主義者は、業界では有名な話です。仕事熱心でプロ根性というのは、同じく魚屋という商売に心血を注いでいた父、増吉から受け継いだ遺伝子かもしれませんが、その片鱗は既に、デビュー当時の少女時代から表われていました。

ひばりが10歳の時、美空楽団の一員として、劇場に出演していた頃、毎日ひばりの関係者に 「舞台の向こう(客席)へ行って、歌を聴いて気が付いたことがあったら注意してほしい」と、お願いしていたそうです。誰も何も頼まないのに、自分のスキルを高めるために、よりよいステージにする為に、既に大人顔負けのプロ根性が芽生えていたということでしょう。

プロ意識としては、スターである自覚も、相当強いものでした。10代初め、家族で湖に遊びに泳ぎに言った時のことです。ひばりは全く泳げなかったのですが、誤って湖で溺れたときも、周囲の好奇な目を意識し、自分は美空ひばりなんだ、という外見を保つことに必死になり、声を出さないで溺れたということです。さらに18歳の時、後に親友になる中村メイコと初対面の際、メイコの、「今度男の子連れて遊ぼう」という誘いにも、「私はファンの人が嫌がることはしない。」と、ピシャリと断ったと言いますから、小さい頃より第一に、美空ひばりのイメージ、スターとしてどう見られているかを大事にしていたことが伺えます。

また、ひばり自身、体調がどんな状態でも、本番では音が狂わない事で有名でした。そのため、音を外したバックバンドの一人をプロ意識が足りないと、その場でクビにしたこともあるそうです。 ひばり自身にだけでなく、自分の周りにもプロ意識の高さを要求していたようです。

ひばりは、プロとして仕事に厳しかっただけでなく、負けず嫌いの性格から、ひたすら努力するという面も持ち合わせていました。幼いころから、天才と言われていましたが、決して才能だけのスターではなく、人知れず努力し、耐える人でもあったのです。

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:超完全主義者 新しい歌に挑戦する時は、夜遅くまで何度も何度も聴き、自分の納得のいくまで勉強していました。ひばりは、新しいジャンルとして、ジャズを歌う事もありましたが、英語が話せたわけではありません。それでもジャズを歌い、成果を残したのは、小さいころから、叔母の結婚相手がアメリカ人で、家にジャズのレコードがあり、それを何度も、繰り返し繰り返し聴いて、耳から、発音や独特の言い回しを学んだことと、3人娘の中で、ジャズを得意とする江利チエミに、負けたくなかった という意地もあったのではないでしょうか。
芸に対するすさまじい執念とも言えるかもしれません。

ひばりの負けず嫌いは、我慢強さでもあります。
例えば、体力的には、かなりハードな期間が続く公演や舞台で、ひばりの歌を聴きに来てくれる人たちの為なら、少しくらい熱が出て苦しかったとしても、満足のいく歌を聴いてほしいと、体調がすぐれない時も、舞台上では、それを少しも感じさせないパフォーマンスでファンを魅了していました。

また、風邪で40度近い熱があり、楽屋では横になってるくらい大変な状態の時がありました。しかし、そのような状態でも、舞台の時間になれば吸入器でのどを整え、胸の空いたドレスを身につけ、化粧をしてスキッとしたスター美空ひばりになったようです。ファンの前に出る時は完全なスター、舞台裏のことは微塵も感じさせないのです。

また映画の撮影中、こんなことがありました。
ひばりが撮影中に盲腸になってしまったのです。無理をしてたため、お腹の痛みは相当であったのにもかかわらず、日中にクランクアップしないと上映に間に合わない、という製作者側の意図を組んで、ひばりは、痛み止めの注射をし、立ち回りで動きの多い場面を朝までかかって完成させ、それから入院したということです。

プロ意識、努力、負けず嫌い、我慢強さ、どれをとっても並みはずれたレベルではなかったということが、ひばりを、超完全主義者にしていたと言えるでしょう。




point-9死ぬほどの体験

ひばりは、生涯2度ほど、命に大きく関わる事故、事件に巻き込まれています。2つの出来事は、ひばりの人生に多大な影響を与え、転機にもなったようです。


美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:死ぬほどの体験 バス事故
昭和21年、ひばりが、9歳の時の四国巡業。ひばり達(当時まだ無名9歳)を乗せて、雨の中、崖っぷちを走っていたバスが、トラックと衝突しました。あわや崖の下、まっさかさまに落ちているところでしたが、運よく桜の木の幹に引っかかったのです。事故により、バスの車掌は亡くなりましたが、後ろの方に乗っていたひばりは、重症だったものの、奇跡的に一命をとりとめた事故です。

事故後、元気になったひばりと喜美枝は、近くの大杉神社に、日本一の杉の木があると聞かされ、家に帰る前に、お参りに行っています。ひばりは、自分が助かったのは、きっと歌手になるために違いない。だからこそ私は歌手にならなければならないと、強く心に誓いました。ひばりは、杉の木に、「おかげさまで無事でした。こうして私は生かされたのですから、どうかあなたのような日本一にしてください。日本一の歌手にしてください」と小さな手を合わせてお願いしたそうです。

当時、歌手になることに反対をしていた、父増吉に対しても、この事故の後、ひばりはきっぱりと 「歌手をやめるなら、死んでやる」と言いきるほどの意志の強さを持ったということですから、この事故は、ひばりの運命を決定づけた出来事だったのでしょう。



浅草国際劇場での塩酸事件
昭和32年、ひばりが20歳の頃。浅草国際劇場での舞台の千秋楽で、ひばりは舞台上で、ファンの女の子に塩酸をかけられ、大やけどを負いました。ファンであるはずの少女は、なぜこのような凶行に及んだのでしょうか。少女は、ひばりより一学年上の同世代で、地方出身者でした。もともと少女は、ひばりの大ファンでしたが、貧しく、苦しい生活を脱するために、故郷から上京してきました。犯人の子にとって、都会というイメージの象徴が美空ひばりだったのでしょう。自分と同じ世代で、きらびやかな第一線にいるスター。もっともっと美空ひばりに近づきたい、そう思ったようです。少女の都会暮らしは、決して楽ではなく、精神的にもふさぎがちになっていき、唯一憧れのひばりが心の支えだったのかもしれません。

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:死ぬほどの体験 せめて話だけでもしたいと、少女は、ひばりの自宅に何度も電話をかけたようですが、勿論取り次いでもらえるはずもありません。改めて、美空ひばりは、手の届かない遠い存在なんだと思い知らされた時、少女のひばりに対する憧れが妬みに変わっていきました。

「スターだから近づけないなら、スターから引きずり降ろせばよい。」
「台無しにして舞台に立てなくしてしまえ。」
哀しく恐ろしい動機だったのです。

好運にも、ひばりは、塩酸をかけられた直後に、付き人である叔母から、水をかけられたことで、 それほどの被害にならずに済みました。

ひばりに、ファン=不安という気持ちにさせてしまった事件。
塩酸事件以降、ひばりのファン達は、おのおのファンのあり方というものを改めて考え直したのかもしれません。芸能人と言える人たちのそれぞれファンがいますが、ひばりのファンはとても良識のあるファンということで業界では有名でした。亡くなって20年以上が経った現在でも、未だにひばりの生誕祭には、多くのファンが駆けつけ偉大でありながら気さくでファンを第一に思ってくれた歌手、美空ひばりを偲んでいます。

生涯通して、ひばりは、常にファンのために全てを捧げてきました。
ファンの中には、塩酸事件の犯人の少女のように我を失ってしまう人もいます。そして、モラルのあるファンもたくさんいます。ひばりにとって塩酸事件は肉体的にも、精神的にもダメージの大きいものでした。しかし、事件以降、ひばりは、ますますファンを大切しようと、より一層芸を磨くことを心に誓ったようです。




point-10叩かれても叩かれても

美空ひばりほどその芸能人生において、デビューの頃から何度となくバッシングを受けた人は いないのではないでしょうか。

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:叩かれても叩かれても まず、昭和21年暮れ、ひばりが9歳の頃、NHKの、「素人のど自慢音楽会」の予選審査での出来事。ひばりは、両親に連れられて、寒さに震えながら、でも心を弾ませながら、予選を待ってました。いざ、自分の番が来ると自信を持って臨み、「リンゴの歌」を熱唱し、両親は、娘の歌声に聴き惚れていました。しかし、いつまでたっても、合格とも不合格とも鐘がならないのです。「歌う姿が子供らしくない」、「歌は上手いが非教育的である」、という審査員の判断で結局、合格不合格が曖昧なまま、予選落ちしました。意気揚々と歌った後だっただけに、子供だったひばりのショックは相当大きかったようです。

芸能界デビュー後もひばりは、悪意に満ちた特集に憤慨することも多々ありました。「悲しき口笛」のヒットで、加藤家が新しい住居を構えた、ひばりが12歳の頃です。雑誌、「婦人朝日」で、「児童の福祉」という特集がありました。

内容は、「ラジオで聴いていると、完全に大年増の歌手としか思えないのに、舞台でみるとそんなしわがれた声がいたいけな子供の肉体から出てくるので不思議な戸惑いを感じる。こんな邪気に溢れたブキヴギを無邪気な小歌手がいとも巧妙に歌い踊る様は、われわれの敗北感を強めずにはいられない」という前文から、疲れ果てておんぶされ寝ているスナップ、サインをしているところも大人並み。 母親はそれを黙って見ているだけ。というスナップ。「退廃した大人のサルまねを、子供にさせることを、存続さすべきか否かは、観客が、客足によって定めればいいことで、法律で圧迫すべきでないだろう。しかし、児童の福祉という点から遺憾である。」という締めくくりで、ひばりの、泣きべそをかいた写真も掲載していました。

また、ひばり13歳(昭和25年)の「東京タイムス」で、詩人のサトウ八ローの記事は、さらに辛辣に書かれています。
・ブギヴギを歌う少女、消えてなくなれ。吐きそう。不気味。
・あどけなさがまるでない怪物、バケモノ。
・あれをやらしている親のことを思うと寒気がする。
・ずうずうしい子供でやりきれない。

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:叩かれても叩かれても 両親はこれらのバッシングに憤慨し、ひばりは相当ショックを受けたようですが、このサトウ八チローの記事を「苦しい時、辛い時は、この記事を見よう。戦う気になれるから。ここでつぶれたらこの詩人先生の思うツボ」と母、喜美枝が、成田山のお守りの中にしまいこんだそうです。

このようなくやしい事件をひばり母子は、「不言実行」として、仕事で勝つというエネルギーに変えて行ったのです。

10代は、大人の物まねがゲテモノよばわり
20代は、ファンから塩酸を浴びせられ
30代は、暴力団との関係を世間から厳しく問われ
40代は、母、弟2人を失い
50代は、再び舞台に立つ夢だけを信じて、病と戦ったが末敗れてしまう。

なんて壮絶な芸能人生なのでしょう。
ひばりは、その輝かしい立場から、嫉妬や羨望によって、何度となく叩かれて叩かれて目の敵のようにいじめられました。ファンですら、愛情があいまいなときは、手のひら返したように噂を信じ、叩く側に回ってしまったのです。

しかし、バッシングを受けているその最中でも、私は歌一つにかけてる、天下の美空ひばりなんだという耐え抜いたところに、ひばりの真の強さ、美しさがあるのではないでしょうか。

後に、サトウ八チローも、ひばり母子に謝罪しているところから、散々悪口や、批判を言ったりした人も、やっぱり美空ひばりは凄い人だと、認めざるを得なかったのでしょう。




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