解説ひばりの父

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加藤増吉。

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:ひばりの父 横浜市磯子区で魚屋「魚増」を営んでいました。
これでもかというくらいの昔堅気の、亭主関白な父親だったようです。増吉はボクシングに夢中になり、アマチュアの試合にも出るほど闘争的な男性でした。また仕事熱心で、魚屋という商売に全てを捧げていました。
ひばりの、叩かれても何度でも不死鳥のごとく甦るど根性の一面、または、仕事熱心なプロ根性の姿勢は、増吉の影響を多分に受けているのでしょう。

増吉はまた、おしゃれに気を遣い、流行歌はもちろん浪曲、どどいつ、端歌までたしなむような趣味人でした。魚を売る際にも独特の節をつけて、唄うように商売をしていたようです。

もしかしたら、ひばりの歌の資質もまた、父親譲りかもしれませんね。
幼い頃から何気なく聞いていた、父親の節回しや自然な間がひばりの、他に類を観ないほどの才能のベースに、なっていたということは、容易に想像がつくところです。

増吉は、趣味が高じて楽団を作り、当時9歳のひばりをメンバーに入れます。
この楽団の名前が「美空楽団」。この時はまだ、「美空和枝」として歌っていました。9歳のわが子を、楽団に入れてしまうというのは、ひばりの歌のうまさが、小さいころからずば抜けていたという証拠でしょう。

ひばりを楽団に引きいれ、歌わせていた増吉でしたが、ひばりの芸能界入りには大反対でした。しかし、妻である喜美枝とひばりの、「死んでも芸能界に入る!」という気迫に負けて、許したと言われています。
後にひばりの後を追う、2人の息子の芸能界入りにはもっと反対したようです。実際、4人の子供のうち、3人も芸能界という世界に送り出すというのは、増吉の心中複雑であったに違いありません。

ひばりがデビューした後は、増吉は、陰ながら応援する立場で居続けました。
ファンが来ると家の中を案内して歩いたり、「平凡」で人気女優一位になったとき、森永チョコレートから大きなチョコレートが届いたので、ファンが来るとおすそ分けしていたり、増吉は彼なりに、輝いている娘が自慢で仕方なかったのでしょう。

ただ、ひばりが9歳でデビューいた時から、妻はひばりにつきっきりだった為、寂しさがあったのか、もともとの性分なのか、増吉は、女道楽が過ぎて、隠し子の存在もあり、晩年の闘病生活の介護をしたのも、別の女性でした。
このようなことから、妻とは仲が良かったとは言えませんが、ここぞという決断の時には、妻からも娘からも頼りにされていたようです。

こんな話があります。
ひばりのデビュー十周年記念公演が、行われようとしていた昭和33年頃、それまで、ひばりの全てに惚れ込んで、仕事に没頭していたマネージャーと妻、喜美枝との関係が完全に決裂状態になり、マネージャーは解雇され、それまでチームひばりとして、一丸となっていた人たちを置いて、 ひばりや喜美枝達が、新しい事務所を立ちあげるなど、ひばりの周りが落ち着かない時期がありました。

喜美枝は、自分とは意見の合わない人たちの排除に成功し、新しい事務所を立ち上げたものの、それまで仕事を獲得してきてくれた者達まで、解雇してしまった事で急に不安になったようです。
しかし、喜美枝は自分が辞めさせた人たちに「戻ってほしい」と頭を下げるほど、潔い性格ではありませんでした。

そこで、正式に謝罪、そしてもう一度助けてほしいと依頼をする席に増吉を表に出したのです。当主の増吉に正座され、律儀に頭を下げられて、断れる人たちはいませんでした。増吉は、いざという時に娘を守り、その後の娘が活躍するために、バックアップの基盤を固めたのです。

美空ひばりといえば、一卵性親子と言われた、母である喜美枝の存在が、大きくとらえられがちですが、父親の資質、陰ながらの支え、そして母親の保護が合わさって初めて、天才児、美空ひばりが作り上げられたといえるのではないでしょうか。

ひばりは、父への気持ちを手記でこう書いています。

「長い年月、妻とも一緒に暮らせず、娘を理解し、妻を尊敬してじっと待っていた父。父から妻を奪った自分は心からわびたいという気持ち。お父さんの愛する妻でもある母が、この先もきっと永遠に幸せであるようつとめたい。」

デビュー以来、常にスター街道を走り続けていながらひばりもまた、陰ながら父を思っていたのでしょう。



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