ポイント解説本名と家族

point-1美空ひばり~本名

美空ひばりー

この名前を聞いて何が一番先に頭に浮かびますか?
昭和の歌手、歌謡界の女王、不死鳥伝説、戦後最大のスター...。
美空ひばりを好きか嫌いかはともかく、日本の歌謡史を語る上で、彼女の名前を知らない人は、まずいないのではないでしょうか?

本名 加藤和枝。
美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:美空ひばり~本名 昭和12年5月29日、血液型O型。
父、加藤増吉と、母、喜美枝夫妻の四人姉弟の長女として生まれました。
昭和と母の名から一字ずつとって「和枝」と名付けられたそうです。
魚屋の娘として生まれた女の子が、どうして昭和を代表する歌手、女優、そして他の追随を許さぬほどの正真正銘のスターになったのでしょうか?

まずはひばりの家族から紐を解くことにより、さまざまなことが見えることでしょう。




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point-2ひばりの父

加藤増吉。

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:ひばりの父 横浜市磯子区で魚屋「魚増」を営んでいました。
これでもかというくらいの昔堅気の、亭主関白な父親だったようです。増吉はボクシングに夢中になり、アマチュアの試合にも出るほど闘争的な男性でした。また仕事熱心で、魚屋という商売に全てを捧げていました。
ひばりの、叩かれても何度でも不死鳥のごとく甦るど根性の一面、または、仕事熱心なプロ根性の姿勢は、増吉の影響を多分に受けているのでしょう。

増吉はまた、おしゃれに気を遣い、流行歌はもちろん浪曲、どどいつ、端歌までたしなむような趣味人でした。魚を売る際にも独特の節をつけて、唄うように商売をしていたようです。

もしかしたら、ひばりの歌の資質もまた、父親譲りかもしれませんね。
幼い頃から何気なく聞いていた、父親の節回しや自然な間がひばりの、他に類を観ないほどの才能のベースに、なっていたということは、容易に想像がつくところです。

増吉は、趣味が高じて楽団を作り、当時9歳のひばりをメンバーに入れます。
この楽団の名前が「美空楽団」。この時はまだ、「美空和枝」として歌っていました。9歳のわが子を、楽団に入れてしまうというのは、ひばりの歌のうまさが、小さいころからずば抜けていたという証拠でしょう。

ひばりを楽団に引きいれ、歌わせていた増吉でしたが、ひばりの芸能界入りには大反対でした。しかし、妻である喜美枝とひばりの、「死んでも芸能界に入る!」という気迫に負けて、許したと言われています。
後にひばりの後を追う、2人の息子の芸能界入りにはもっと反対したようです。実際、4人の子供のうち、3人も芸能界という世界に送り出すというのは、増吉の心中複雑であったに違いありません。

ひばりがデビューした後は、増吉は、陰ながら応援する立場で居続けました。
ファンが来ると家の中を案内して歩いたり、「平凡」で人気女優一位になったとき、森永チョコレートから大きなチョコレートが届いたので、ファンが来るとおすそ分けしていたり、増吉は彼なりに、輝いている娘が自慢で仕方なかったのでしょう。

ただ、ひばりが9歳でデビューいた時から、妻はひばりにつきっきりだった為、寂しさがあったのか、もともとの性分なのか、増吉は、女道楽が過ぎて、隠し子の存在もあり、晩年の闘病生活の介護をしたのも、別の女性でした。
このようなことから、妻とは仲が良かったとは言えませんが、ここぞという決断の時には、妻からも娘からも頼りにされていたようです。

こんな話があります。
ひばりのデビュー十周年記念公演が、行われようとしていた昭和33年頃、それまで、ひばりの全てに惚れ込んで、仕事に没頭していたマネージャーと妻、喜美枝との関係が完全に決裂状態になり、マネージャーは解雇され、それまでチームひばりとして、一丸となっていた人たちを置いて、 ひばりや喜美枝達が、新しい事務所を立ちあげるなど、ひばりの周りが落ち着かない時期がありました。

喜美枝は、自分とは意見の合わない人たちの排除に成功し、新しい事務所を立ち上げたものの、それまで仕事を獲得してきてくれた者達まで、解雇してしまった事で急に不安になったようです。
しかし、喜美枝は自分が辞めさせた人たちに「戻ってほしい」と頭を下げるほど、潔い性格ではありませんでした。

そこで、正式に謝罪、そしてもう一度助けてほしいと依頼をする席に増吉を表に出したのです。当主の増吉に正座され、律儀に頭を下げられて、断れる人たちはいませんでした。増吉は、いざという時に娘を守り、その後の娘が活躍するために、バックアップの基盤を固めたのです。

美空ひばりといえば、一卵性親子と言われた、母である喜美枝の存在が、大きくとらえられがちですが、父親の資質、陰ながらの支え、そして母親の保護が合わさって初めて、天才児、美空ひばりが作り上げられたといえるのではないでしょうか。

ひばりは、父への気持ちを手記でこう書いています。

「長い年月、妻とも一緒に暮らせず、娘を理解し、妻を尊敬してじっと待っていた父。父から妻を奪った自分は心からわびたいという気持ち。お父さんの愛する妻でもある母が、この先もきっと永遠に幸せであるようつとめたい。」

デビュー以来、常にスター街道を走り続けていながらひばりもまた、陰ながら父を思っていたのでしょう。




point-3ひばりの母

加藤喜美枝。
美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:ひばりの母 美空ひばりに、「ひばりが歌をやめる時こそが、母が本当に死ぬ時。」と言わせるほど、ひばりを愛し、心の底からのファンであり、プロデューサーでありました。

ひばりを作り、支え、愛するが故に、和枝の幸せをもいくども奪った人でもあります。
しかし彼女がいなければ、美空ひばりが、生涯スターであり続けることはなかったでしょう。

喜美枝は、9歳でひばりが芸能界入りしてからというもの、自分が病気で自由がきかなくなるまで、実に長い間、自らの全てを、ひばりに捧げました。元々芸事が好きで、気丈な性格である喜美枝はどのような現場にも、いつもひばりの横にいました。それゆえに、ひばりへの思い入れは、 他人では測りがたいものがあったようです。

ひばりが、デビューしたての頃、風邪を引いて歌が歌えないといっても、とにかくお尻を叩いて 舞台にあげさせていました。映画の撮影の時も、ひばりが生理がひどくて体調を崩していたにもかかわらず、馬に乗るシーンを撮影させるなど、傍から見ると、残酷にも映ることもあったと言われています。

しかし、だからこそ、ひばりへの中傷や嫌がらせ、マイナス面全てにおいて喜美枝が、常にひばりの防波堤となっていました。喜美枝は、ひばりのスポークスマンであり、代弁者でもありました。血と涙のにじむような苦しい毎日も、喜美枝が矢面に立ってときに、ひばりと母子で泣きながら、常にひばりを守ってきたのです。

ひばりの人気が出ると、ますます喜美枝の存在が、大きくなってきます。ギャラ、共演者、舞台公演、衣装、会見、全てのスケジュールに口を出し、関係者の間では、ひばりの説得より、母の説得が困難であると有名でした。ひばりは、子供のころはもちろん、その延長なのか、もともとの性格なのか半ば、母親のいいなりに近かったと言われています。

喜美枝は、ひばりを監督し、仕切り、相当な権限を持っていたようです。ステージママという枠を超えた総合プロデュースと言えるでしょう。「美空ひばりはこうあるべきだ」、という絶対のビジョンを持っていてそのビジョンに合わないものは、徹底的に排除していました。この排除が、いつもトラブルのもとになり、娘の幸せをも奪ったこともあるのです。

そして、喜美枝の溺愛は、四人姉弟でひばりだけではありませんでした。
喜美枝は、息子達も早くひばりのように一人前にしようと、一生懸命になりすぎたことが、逆に仇となってしまいました。

長男加藤益夫(芸名 小野透)のときは、主役にしようと急がせ過ぎて失敗。

二男武彦(芸名 花房錦一)のときは、喜美枝自身の目の前で、武彦がプロデューサーにけなされたことに腹を立て、せっかくつかみかけた、準主役のテレビ番組から降板させたのです。

しかし、喜美枝が生涯をかけて作り上げた、「美空ひばり」は、喜美枝の断固たる意思と、ゆるがないビジョン、そして、大きくて深い愛情に守られて、この世を去る瞬間まで、ずっと輝き続けました。亡くなってもなお、異彩を放つ大スターとして後世まで語り継がれているのは、やはり、今まで例を観ない程の、母親のプロデュースがあったからでしょう。



   

point-4ひばりファミリー 弟:益夫改め哲也

美空ひばりの家族には、両親の他、弟2人、妹一人がいます。
妹は、ひばりの死後、54歳の新人歌手としてデビューするまで、芸能界に入ることはありませんでしたが、弟達はそれぞれ、小野透(本名 加藤益夫)、花房錦一(本名 加藤武彦)という名前で、早々に芸能界デビューしました。

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:ひばりファミリー 弟:益夫改め哲也 弟達のデビューは、ひばりの七光りそのものでした。

益夫の、小野透という芸名は、ひばりが昭和28年当時、付き合っていたバンドマン、小野満の影響があったと言われています。昭和33年、歌手としてデビューし、、ひばりの地方公演で前歌を歌っていましたが、翌年に俳優デビュー。
ひばりの大ヒット映画、「べらんめぇシリーズ」で、大当たりし、その後主役で数本映画出演しています。

が、役が気に入らないと、撮影中に姿をくらましたり、本人もやる気がなくなり、芸能界から引退。 その後は、暴力団に入り、数々の逮捕歴、ついに昭和49年末、懲役二年四カ月の実刑判決で、 刑に服すことになります。

このことで、ひばりの仕事にかなり大きい影響が出たことは、言うまでもありません。
そもそもひばりの父、増吉が昭和38年に亡くなった際、葬儀の案内状に「山口組系益田組若頭」という肩書を使ったことが、新聞や週刊誌のかっこうの攻撃材料になってしまいました。
益夫(小野透改め、かとう哲也として再デビュー、以後哲也とします)の実刑判決は、こぞって新聞や週刊誌で叩かれ、NHKの紅白歌合戦にも落選する原因にもなったようです。
ちょうど昭和48年当時は、全国的に暴力団追放が叫ばれていただけに騒ぎも大きくなってしまったようです。

刑を終えて出所した哲也は、皆の信頼を取り戻そうと必死にひばりのプロデュース業に励みます。プライベートは、あまり落ち着きがなく、結婚し離婚し、また再婚して、後にひばりの養子になる和也を設けますが、すぐ離婚。
しかし、仕事の方は、体が弱ってきた母、喜美枝に変わり本格的にひばりのプロデュースを手掛け立派なマネージャーになりますが、そう長くは続けられませんでした。

昭和58年、42歳の若さでこの世を去ることになります。




point-5ひばりファミリー 弟:武彦

美空ひばりの弟である武彦は、小さいころから叔母に預けられていたりして、親の愛情に、恵まれないで育ちました。ひばりと益夫は母にかわいがられ、もう一人の姉の勢津子は父にかわいがられましたが、武彦はどちらからもそれほど目をかけてもらえなかったようです。

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:ひばりファミリー 弟:武彦 武彦は、兄の後を追って、花房錦一という芸名で昭和33年にデビューしました。益夫とは違って、最初から俳優を志していた武彦は、最初の頃、ひばりの時代劇の端役をしていました。主役はおろか、なかなか端役にも出演させてもらえない時期がありましたが、「てなもんや三度笠」というテレビ番組で準主役に抜擢されます。
やっと掴んだ大きな役でしたが、撮影を見学に来た母、喜美枝にプロデューサーが親切心で言った言葉が、喜美枝にとっては自分の目の前で武彦をけなしたというとらえ方になり、出演を禁じてしまったのです。それからというもの、どこからも声もかからなくなり、ひばりの芝居以外は全く舞台に立てなくなってしまいました。さらに、「美空ひばりの弟」という地位を散々利用し、日連夜、あそびまくっていたことから、益々自分の居場所をなくしていきます。

しまいには、益男も武彦も、ひばりの舞台ですら会場から拒否されるようになってしまい、母、喜美枝の夢であった、3姉弟で舞台公演や映画出演という話は泡と消えてしまいました。
その後、武彦は、お酒に救いを求めるようになり、ひばりの出資で水商売を立ち上げ頑張ろうとしますが、商売人に徹することができず、どんどんお酒に溺れていきました。結局、肝硬変で昭和61年、益夫と同じ42歳で亡くなっています。

母、喜美枝は何でもファミリーで固めたがりました。
あまりにひばりがあまりに偉大な歌手であった為に、その力を借りて、芸能界入りし、何とか二人とも人気者にしようと思ったようです。それが逆効果になり、美空ひばりの弟だからと、まわりからちやほやされて、不甲斐無い結果になってしまいました。もしかしたら 哲也も武彦も、芸能界とは違う道を選んでいたら、それなりの幸せを手に入れていたのかもしれません。

だからこそ、余計にひばりに頼り、ひばりの稼ぎはファミリーのものという意識が強かったと言われています。ひばり本人も、自覚していたようですが、もしかしたらひばりは、ひばり自身ではなく、ファミリーの為に歌い、ファミリーの為に働いていたといえるかもしれません。




point-6ひばりファミリー 妹:勢津子

美空ひばりには一つ違いの妹「勢津子」がいます。
ひばりと妹とは仲が良く、色んなことで相談し合ったり、オフの日は一緒に出かけたりもしたそうです。

美空ひばりDVD:昭和の歌姫「美空ひばり」思い出のあの曲を:ひばりファミリー 妹:勢津子 仲の良い姉妹でしたが、妹の勢津子は母、喜美枝とは昔から確執があったようです。実は、父増吉が、ひばりが生まれて間もないころ、喜美枝の妹と深い仲になり、勢津子と同い年の子供がいます。
従姉妹として育ちましたが、思春期に、その従姉妹が異母兄弟であることがわかったのです。この件が、ひばりの両親の溝を、決定的にしたようで、それ以降、余計に喜美枝が、ひばりの芸能活動にのめりこんでいったと、勢津子は感じていました。

父親の至らぬ過去で勢津子とは全く関係のないことですが、昔から喜美枝は姉であるひばりは溺愛していたが、その件を思い出すのか勢津子にはつらくあたったようです。それゆえ、父:増吉が勢津子の味方になったということです。

ひばりの妹勢津子は、54歳で新人歌手としてデビューするまで、芸能界には入らずに来ました。

もともと歌が大好きで、歌にチャンレンジをしようとするチャンスはありましたが、歌手になるということは夢にも考えていなかったようです。もちろん、それは歌手の最高峰であり、雲の上の存在であるひばりが、いつも自分の目の前にいたからです。姉にはとてもかなわない、私は歌手にはならないと決めていたといいます。

勢津子自身、小さいころからひばりの歌を聴いて、姉を心から誇りに思うと同時に、美空ひばりの熱狂的なファンではありましたが、あまりに姉が偉大で、同時に重荷でもあったようです。いつしか姉は光で、自分は陰ー、それでいいと思うようになったということです。

しかし、自分の夫が急逝し、さらに姉のひばりが亡くなり、子育ても一段落した頃、これからの人生を、大好きな歌とともに生きて行こう、と結論づけました。「姉の輝かしい歴史を汚さないか」と、かなり悩んだようですが、ひばりのヒット曲を歌い継ぎたいという純粋な気持ちからデビューを決めたということです。

さすが血を分けた姉妹、声や節回しは、ひばりによく似ています。
勢津子の歌で、ひばりの名曲が甦り、後世に語り継がれていくことを、きっとひばりも喜んでいる事でしょう。



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